大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和29年(ワ)9号 判決

原告 関口緝

被告 加茂繁吉

主文

被告は、原告に対し金五万円及びこれに対する昭和二十九年一月三十日より支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告の其の余の請求を棄却する。

訴訟費用は、これを三分し、その二を被告、その一を原告の各負担とする。

理由

被告が、昭和二十七年二月十八日横領被告事件の被告人として神戸地方裁判所洲本支部に公訴を提起せられたこと、その公訴事実が原告主張の如くであること(もつとも、成立に争のない甲第四号証によれば、右公訴事実は、起訴後右裁判所で審理中、背任罪の訴因が予備的に追加せられたことが認められる。すなわち、その予備的訴因は、被告は、右公訴事実記載の委任契約に基いて出雲食品工業株式会社のため、その経営管理に当つていたものであるが、松田公一と共謀の上、自己の利益を図る目的を以つて、その任務に背き公訴事実第一、第二記載のとおり、それぞれ右会社所有の物件を売却処分して右会社に対し財産上の損害を加えたものであるというのである。)被告が、同年三月頃弁護士である原告に対し右被告事件につき、第一審における弁護を委任したこと、原告が被告のため右刑事事件につき弁護をなしたこと及び昭和二十八年三月五日右裁判所において被告無罪の判決が言渡され、検察官の控訴なくして確定したことはいずれも当事者間に争がない。

そして、成立に争のない甲第三、四号証、証人松田公一の証言(第一回)及び原告本人尋問の結果の各一部並びに弁論の全趣旨を総合すれば、本件刑事事件は、前記裁判所において、昭和二十七年三月二十八日より昭和二十八年二月十七日に至るまでの間七回公判が開かれ、その間約十人の証人の尋問が行われたこと、本件刑事事件は、複雑な民事上の法律問題に関連しているので原告はその間事実並びに法律関係を調査研究し、右各公判期日に出頭して被告のため有利な立証をなし、もつて、被告無罪の判決を得るよう努力したこと、特に、最終の公判期日に被告のため無罪の弁論をなし、その数日後、被告無罪の法律上の根拠を詳細に論述記載した十数枚にわたる書面すなわち「弁論の要旨」と題する書面を作成の上これを裁判所に提出したこと、その後同年三月五日前記のように被告無罪の判決が言渡され検察官の控訴なくして確定したのであるが、右判決は無罪の理由として右書面における原告の所論を全面的に採用していること及び本件刑事事件においては最初より判決言渡まで弁護人は原告一人であつたことが認められ右認定を左右するに足る証拠はない。

原告は、本件刑事事件の弁護委任の際、被告において原告に対し着手金として数万円を支払うべく、第一審において無罪の判決が言渡され、検察官の控訴なくして確定したときは、相当の報酬金を支払うべき旨約定し、昭和二十七年三月二十日頃着手金の内金二万円を支払い、無罪の判決が言渡された昭和二十八年三月五日着手金の残金として金三万円及び報酬金七万円を支払うべき旨約定したと主張するので、按ずるに、証人中田武報の証言により成立を認め得る甲第一号証、同証言、証人松田公一(第一、二回)の証言の一部、原被告各本人尋問の結果の一部及び弁論の全趣旨を総合すれば、被告は、本件弁護を委任する以前民事事件の訴訟代理及び刑事事件の弁護を数回原告に対し委任したことがあり報酬等の支払につき原被告間に争の生じたことがなかつたので、原告は、被告を信頼して本件弁護受任の際被告と着手金及び報酬金の授受並びに金額につき特に契約を締結しなかつたこと、けれども昭和二十七年三月二十日頃被告は、原告に対し着手金として金二万円を交付したこと、報酬金の授受並びに金額についてはその後も遂に両者間に契約は締結せられなかつたことが認められ、前記証人松田公一の証言(第一、二回)及び原被告各本人尋問の結果中右認定に反する部分は、いずれもたやすく措信し難く、他に右認定をくつがえすに足る証拠はない。

右認定の如くであつて、原告主張のように、被告が原告に対し昭和二十八年三月五日着手金残金三万円及び報酬金七万円を支払うべき旨約定した事実はこれを認め得ないから、該事実を前提とする原告の第一次的請求原因に基く着手金及び報酬金の請求は、失当である。

前記認定のように、昭和二十七年三月二十日頃原被告間に着手金二万円が授受されたことが認められるが、これ以外に原告主張のような着手金についての各契約の成立事実は認められない。そこで、原告主張の(七)の(は)の予備的請求原因に基き着手金請求の当否について判断する。

凡そ、弁護士に対し刑事弁護委任の際、授受されるいわゆる着手金は、その内容必ずしも一定したものではなく、右委任の際、通常授受されるものであるが、これが授受につき特約ある場合にのみ、委任者は、これが支払の義務あるものであつて、特約のない限り、弁護士が委任事務を処理し、当該被告人に有利な判決、例えば執行猶予又は無罪の判決が言渡され、確定したような場合でも、弁護士は、委任者に対し報酬金を請求し得るは格別、当然相当額の着手金を請求し得るものということはできない。換言すれば、着手金授受の特約がない場合でも刑事弁護を委任し、委任事務が処理され、当該被告人に有利な判決があつた場合は、当事者間に相当額の着手金を授受すべき旨の暗黙の合意があつたものと推定することは妥当でないし、又かような場合、当然相当額の着手金を授受すべき慣習があるものともいうことはできない。

本件につきこれをみるに、前記認定のように、原被告間に、昭和二十七年三月二十日頃着手金二万円が授受されただけで、右以外に着手金を授受すべき旨の特約のあつたことは認められないから、右説示により、原告の右予備的請求原因に基く着手金請求は失当である。

次に、原告主張の(七)の(い)の予備的請求原因に基く報酬金請求の当否について判断するに、前記認定のように、本件弁護委任の際原被告間に第一審において無罪の判決が言渡され、確定した場合には被告が原告に対し相当の報酬を支払うべき旨の契約が締結されたことは認められないから、これを前提とする原告の右請求は失当である。

そこで、最後に、原告主張の(七)の(ろ)の予備的請求原因に基く報酬金請求の当否について審究する。

凡そ、弁護士に対し刑事事件の弁護を委任するにあたり、その報酬の授受及び金額につき、特に契約が締結されなかつたとするも、その弁護士において無報酬で受任するとか、その他特別の事情のない限り、弁護士が委任事務を処理した場合、委任者は、弁護士に対し相当額の報酬金を支払うべき旨の黙示の合意があつたものと推定するを相当とする。そして、その金額は、委任事件の難易、弁護士の費した努力の程度、その成果、委任者の受けた利益の程度、その身分、職業、資産、その他当事者間に存する諸般の事情を参酌し、当事者の意思を推定してこれを定めるべきものであると解する。

今本件につきこれをみるに、本件弁護の委任を受けた原告が、本件刑事事件が神戸地方裁判所洲本支部に係属審理中、被告無罪の判決を得るため、委任の趣旨に従つて種々努力し、以て委任事務を処理し殊に最終公判期日の数日後被告無罪の法律上の根拠を詳細に論述記載した「弁論の要旨」と題する書面を作成の上これを裁判所に提出し、その後昭和二十八年三月八日右裁判所が右書面における原告の所論を全面的に採用して無罪の判決を言渡し同判決が検察官の控訴なくして確定したことは前記認定のとおりであつて、原告が無報酬で本件弁護を受任したとか、その他特別の事情は本件においては認められない(もつとも、被告は、本件弁護委任の際、原被告間において、被告は、原告の委任事務処理に対する報酬として金二万円を支払うこと、原告は、右金員の外は着手金、報酬金を請求しないことという内容の契約を締結し、その後昭和二十七年三月二十日頃原告に対し右金二万円を予め支払つたから、報酬金支払義務はないと主張するけれども前記証人松田公一の証言(第一、二回)及び被告本人尋問の結果中、右主張事実に照応する部分は、いずれも措信し難く他にこれを認め得る証拠はないから、被告の右主張は採用できない。右金二万円は、前記認定のように、着手金として授受されたものである。)故に前記説示により、被告は、原告に対し相当額の報酬金を支払うべき義務があるものというべきである。

そこで、進んで、右報酬金の相当額について審究するに、前記認定の各事実によつて認められる本件刑事事件の難易、原告が受件後判決言渡まで委件事務を処理した期間、公判期日の回数、弁護人は原告一人であつたこと、原告の費した努力の程度、その成果、原告が既に着手金二万円を受取つたこと、前記証人松田公一の証言(第一回)及び原被告各本人尋問の結果の各一部を総合して認められる被告が洲本市にある旅館三熊館の建物及びその動産全部の所有者であり、且つ同旅館の実質上の経営者であり、同市内、大阪市等に借家数十戸、田地及び山林を所有し、終戦後現在に至るまで洲本市市会議員の職にあること、本件刑事事件起訴後日夜苦悩していたが、無罪の確定判決を得たので、右苦悩より解放せられ、右市会議員の公職を保持することを得、本件公訴の犯罪の被害者である前記出雲食品工業株式会社よりの損害賠償その他民事上の請求を免れ、なお、本件刑事事件は、第一審限りで確定したので、上訴審で要すべき一切の費用の支出を免れるに至つたこと及び成立に争のない甲第五号証(昭和二十七年十二月二十二日制定の神戸弁護士会報酬基準規程)により認められる同弁護士会所属弁護士の刑事弁護の報酬金に関する準則、その他当事者間に存する諸般の事情を参酌して考究すると、前記報酬金は、金六万円をもつて相当とすることが、原被告の意思に合するものと推定する。

以上の次第であるから、被告は、原告に対し右報酬金六万円を支払うべき義務があるところ、前記証人松田公一(第一回)の証言及び原告本人尋問の結果の各一部並びに弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、昭和二十八年四、五月頃被告の妻を介して本件弁護の報酬金の内金として金一万円の支払を受けたことが認められるから、結局被告は、原告に対し、右金六万円よりこの金一万円を控除した残金五万円の報酬金を支払うべき義務があるわけである。よつて、原告の本訴請求は、被告に対し右報酬金五万円及びこれに対する本件訴状が被告に送達せられた日の翌日であることが、記録上明かな昭和二十九年一月三十日より支払ずみに至るまで民法の定める年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において正当として認容すべきであるが、その余の請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条第九十二条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 安部覚)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例